今月を視る(「むすぶ」2014年4月号より)2014/04/25 10:48

―安倍政権がねらう国のかたち―
  「武力行使のできる国」「交戦権のある自衛隊」を認めない!
「安倍政権が戦争したがっていると言う人がいますが、そんなわけはない」。安倍政権周辺の閣僚、自民党議員、御用学者が、「集団的自衛権行使容認」批判に対して最近よく使う「反論」だ。第一次世界大戦以降、「戦争」が違法であることは、偏狭なナショナリストが中心の安倍政権でもわきまえなければならない事実である。したがって、安倍政権のねらいが「戦争できる国」ではなく、「武力行使のできる国」「交戦権ある自衛隊」であることに的を絞って批判を展開する必要がある。

安倍政権のやること、なすこと、言い草には腹の立つことばかりである。本来、武力紛争がない状況だけでなく、貧困や環境破壊、人権侵害など社会的不正義にも立ち向かい、取り組んでいく「積極的平和主義」を単なる「武力信仰」を意味するだけの「積極的平和主義」に置き換えたり、「武器輸出」を「防衛装備品」輸出に置き換えたり、ごまかしとイメージ操作の連続である。

理由も大儀もなかなか見出せない集団的自衛権行使合憲論。そのため、「安保法制懇」など安倍政権周辺の連中が総出でやっと探し出してきたのが、「最高裁砂川判決」である。

この「論拠」で先陣を切り、引っ張るのは、自民党内の「意見集約」に走る高村正彦副総裁である。高村らは、1959年の砂川事件最高裁判決の「わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然」との部分を引用して、最高裁は個別的、集団的の区別をせずに必要最小限度の自衛権を認めている、と主張する。安倍首相も「個別(的自衛権)も集団も入っている。両方にかかっているのが当然だ」「集団的自衛権を否定していないことは、はっきりしている」と奇妙な言い切りを行っている。

「砂川事件」は、1957年、東京都砂川町(現立川市)の米軍立川基地拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に立ち入り、7人が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪で起訴された事件である。東京地裁は「米軍駐留は憲法9条違反で罰則は不条理」(伊達裁判長の名をとって「伊達判決」と呼ばれている)と無罪を言い渡した。検察側の跳躍上告(高裁を飛ばす)を受け、最高裁は59年に一審判決を破棄し「わが国が、存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは国家固有の権能の行使として当然」との解釈を示した、というものである。

だが、この判決は、一審伊達判決を覆すために、米側から外相、最高検、最高裁に対する直接的かつ具体的な指示があったことがすでに公開米公文書で裏付けられており、「司法の独立」を放棄した極めて政治的判決であることは、広く知られている。この「最高裁砂川判決」を集団的自衛権行使合憲論の根拠とすることの無理はそれだけではない。判決は、在日米軍基地の存在が違憲ではないとするために、「自衛のための措置として他国に安全保障を求めることは禁じられていない」とした上で、「日本が主体として指揮権、管理権を行使できない米軍が駐留しても憲法の禁じる戦力には該当しない」としたにすぎない。しかも、伊達判決の再来を防ぐために、「安保条約のごとき、…高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、裁判所の司法審査権の範囲外」とのいわゆる「統治行為論」を展開し、後の違憲訴訟に逃げ道を準備した法的にはレベルの低い判決である。

安倍政権のごり押し路線は、無理に無理を重ねている。対中国紛争に、「見捨てられ危機」をあおり、「集団的自衛権行使解禁」をえさに米国を巻き込もうとしても、米国は、巻き込まれたくない意志を明らかにしている。こんな底の浅い「集団的自衛権行使」解禁計画は、広く真実を知らせるならば、必ず葬り去ることはできる。

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